社会心理学における対人心理
お勉強です。


魅せられるとはどういうことか?

他人に対して感じる魅力を「対人魅力」という。対人魅力は、「環境要因」(接触頻度など)、「生理的覚醒」(不安のときに相手を好きになる[吊り橋効果]など)、「外見の要因」(容姿が好みの場合)、「個人特徴」(相手の態度が自分の似ているかなど) といった要因が影響する。

対人魅力における環境要因として、フェスティンガーは空間的距離と親しみに関連性があり、近さが魅力を増すことを確かめた。モアランドは「単純接触仮設」として、繰り返し出会うことで好意が増すことを実証した。ただし、スワップによる実験では不快な人の場合に関しては逆効果になるので注意が必要だ。

クラインクらの研究によると、初対面の人に話しかけられた場合、話し方や内容が軽薄だと話しかけられた側は気分を害し、当たり障りない無害な内容では気分は左右されず、そのときの状況に結びつく直接関係のある内容の場合は好意的に評価した。

クロアーらの「強化?感情モデル」で前述の内容が評価されているが、同じ人に出会っても、そのときどきの気分次第でその人への評価が気分に左右されることがこのモデルで説明される。(私見:故に感情に左右されない客観性は重要だが、情緒豊かな人への良い評価など、個性の尊重と深慮も必要だろう。)

シャクターは不安や恐怖があるときに、知己の有無に関係なく他者との「親和欲求」が増加することを明らかにした。理由には、不安から逃避するために誰かと話したくなる、話すことで状況の認知的明確化をはかる、慰めあえば直接的な不安解消に繋がる、他の行動を参考に自己評価する、が挙げられる。

ただし、不安で親和欲求が増すかどうかは状況次第でもあり、前述のような分析が意味をなさないような非常に困難で見通しがつかない問題の場合は、親和欲求は増さないとのこと。

一般には外見と人柄は別と考えられている。

書き難いことだけれど、心理において人は無意識に外見とその人の人柄や能力を関連付けてる偏見があることが分かっている。

ウォルスターはダンスパートナーを選んだりデートに誘う場合は人柄や知能より身体的魅力が影響するという結果になる調査をしている。

ダイオンらの調査でも身体的魅力が性格のよさは社会的成功を収めるか否かの判断に影響することを示しているとのこと。

人はどうしても偏見を解消しきれないため、外見的な魅力の有無で人への対応に差が生じるし、それが各々の自信の有無にも影響し、社会的な活躍の機会の提供にも関係するだろう。

(私見)ものごとを区別する必要から人は違いを認識し、感情がある限りその過程で偏見も生じることがあるかもしれないが、同時に人は理性的もしくは倫理的であるが故に偏見を問題視する。無意識レベルでそれらが影響することを考慮し、機会の平等を十二分に重視した社会を形成する努力が望まれる。

意見や態度が似た人には好感を持つ傾向がある。「社会比較過程理論」(能力や意見を他者と比較して評価する考え方)によると、態度の類似性と好感に関しては、自分と同じ意見の人によって自分の意見の正しさを確認でき、それで気持ちが爽快になるため、似た意見の人を好むということになる。

デパロウの研究で親密さが増すほど見栄や偽りを言う必要がなくなることが証明された。アルトマンの「社会的浸透理論」によると「自己開示」は表面的から内面的に序々に進む。「信頼―好意仮設」では相手に自己開示されると信頼されていると感じて好意と親密度が増していき自分も自己開示するという。

相手から高く評価されていると信じただけで相手への好意が増すことがある。人は他者から承認されたいという欲求があるため、自分を肯定的に評価する他人を好む傾向があり、それを「好意の返報性」という。ただし、自己否定がある人の場合は肯定で好意が増すとは限らないとのこと。

愛と好意は異なる。バーシャイドらによると、愛は空想に結びつくが、好意は現実に結びついており、愛は愛憎が入り混じるが、好意はそうではなく、愛(特に恋愛)は時間の経過につれて弱まる傾向があるものの、好意は時間が経つにつれて強まる傾向があるとのこと。

恋愛対象に年齢差がある理由は、遺伝的生殖戦略説だと男性は健康な子を生む若い女性を好み、女性は子どもを育てる環境を提供してくれる男性を好むから。公平理論説では年配の男性のもつ権力や経済力と女性の若さや美しさが取引されるから。(私見:宿命を乗り越えられる社会は技術も制度も共に進歩的)

(補足:社会心理学のまとめを記述している。対人心理と恋愛を含めた魅力については事実がどうかを重視した実際の状況の研究だろうけれど、現実における男女の相違は扱いが難しいもので、人は権利の上で平等だから本来あるべき社会的平等という観点を尊重して格差を克服する社会の構築を希望したい。)

S.S.ヘンドリックらによる恋愛の類型

エロス(情熱的な恋愛):恋愛を最高のものと考え、ロマンティックな考えや行動をとる。互いに理解し愛し合っていると考え、強烈な一目惚れを起こす。

スト―ゲイ(友愛的な恋愛):穏やかな、友情が発展した友情的な恋愛。長い時間をかけて愛が育まれ、終局になっても友情関係を維持したいと考える。

アガベ(愛他的な恋愛):相手を中心に考え、相手のためになるなら自分自信を犠牲にすることも厭わない。

マニア(熱狂的な恋愛):独占欲が強く、絶えず相手のことが気になる。嫉妬、悲哀など自分でコントロールできにくい激しい感情を伴う。

プラグマ(実利的な恋愛):恋愛を計算高く考え、相手を選ぶときに相手の将来性、社会的地位・経済力などの釣り合いを考慮する。

ルダス(遊び感覚の恋愛):恋愛をゲームとして捉え、自分の楽しみを優先する。相手とある程度の距離をおこうとし、相手に頼られるのを避ける。複数の相手と恋愛できる。



ドリスコールらのいう「ロミオとジュリエット効果」とは、ドラマなどで情熱的な恋愛が現実に存在することを信じており、適切な恋の対称が存在し、周囲の反対などの妨害があるという3つの条件が揃ったとき、反対されたことによる興奮を錯覚して、恋による興奮と解釈することで恋心が高まるというもの。

バーシャイドらの「釣り合い仮説」とは、身体的魅力が自分自身に類似している人をパートナーに選ぶ傾向があること。マースタインによって客観的にも主観的にもそうであることが証明されている。不釣り合いなパートナーの場合は、経済力や知識、人間性などの他の要素で不足する魅力を補っているという。

ブラッドバリーらは「帰属理論」を用いてパートナーの関係の良否を分析。

関係性を強める帰属
相手の望ましくない行動を「外的」「不安定」「特殊」と理解し、望ましい行動を「内的」「安定」「包摂」と解釈する。

説明:熱愛中のパートナーは、相手の望ましくない行動を相手の責任とせず(外的)、偶然(不安定)で、今だけ(特殊)のこと、と捉える。望ましい行動には、相手に備わったもの(内的)で、いつも(安定)、ほかのことでも(包摂)行われていると理解する。 逆に冷めているパートナーは、前述と逆の解釈を行う傾向がある。

関係維持を危機にする帰属
相手の望ましくない行動を「内的」「安定」「包摂」と理解し、望ましい行動を「外的」「不安定」「特殊」と解釈する。



ブレームによると、関係の親密さの度合い、相互依存性の程度、相手との関係が自分を支える程度について、それぞれが高いほど関係が上手くいくため長く続くが、関係が悪化した場合の崩壊も長引く傾向があるとのこと。

レヴィンガーは以下のような場合に関係が悪化していくと指摘。このままではどうにもならない。新しい生活しかない。相手に別の人がいる。どう努力しても結局は分かれるしかない。関係を維持するのに疲れた。

関係が悪化したときの対応は消極的なものと積極的なものに分かれる。消極的対応で、改善を望む場合は相手に誠実な行動をとるが、改善を望まない場合は無視する。積極的対応で、改善を望む場合は関係改善のためのあらゆる手段を用いて努力するが、改善を望まない場合は関係を終わらせるように行動する。

誰かが困難に遭遇している場合にどうしますか?

自分以外に傍観者がいると行動を起こさない心理を「傍観者効果」という。
その心理的要因は、傍観者の存在から

・多元的無知:緊急性を要しないと考える
・責任分散:責任や非難が分散されると考える
・評価懸念:行動の結果に対するネガティブな評価を恐れる


がある。

援助する場合は、どのような心理がはたらくのだろうか?

ラタネらは、援助行動に至るまでに5つの段階を経ると考えた。

援助行動に関する5段階
① 緊急事態に注意する
② それを緊急事態だと判断する
③ 援助を行うことが個人的責任であると考える
④ 特殊な技能が必要か、自分に可能か、警察や救急車を呼ぶべきかなど、
 援助の仕方を知り、できるかどうかを判断する
⑤ 援助を行うことを決定する。



ワイナーによると、援助をするかどうかは困難に遭遇している人の責任を援助者がどう考えるかによって決まるとのこと。原因が当事者にあると考えられると援助され難く、原因が当事者にないと判断されると同情から援助されやすい。(援助者がどのような情報を得ていたかにもよるが印象が影響するようだ)

援助行動をする人はどんな人だろうか?

ビアーホッフらは利他的人格と関連する特徴を明らかにした。

他人を援助する人の特徴
・自身のことを、他人に深く共感でき、責任感が強い社会の一員であり、自己制御ができ、
 他者によい印象を与え、合法的に行動し、人に寛大であると考えている
・世の中は公平であると考えている
・社会的責任の自覚が強い
・自分自身の力を信じている
・自己中心的ではない



前述の援助行動の対称のものとして攻撃行動がある。社会心理学において攻撃行動とはどういうものかを扱う。
バロンによると攻撃行動は、危害を避けようとしている他の人に対して、危害を加えようと意図してなされる行動、と定義される。

攻撃は怒りや憎しみの感情ではなく実際の行動であり、危害を与えようとする意図があり、対称が物ではなく危害を避けようとする人間で、攻撃行動は暴力などによる身体的損傷に限らず悪口や非難、中傷などの精神的苦痛を与えるものを含む。

攻撃行動は、他人を攻撃することで自分の要求を通したというような直接経験や観察学習を経て学習し身につけていくという説がある。攻撃行動にまつわる学習は、彼らに適切な攻撃目標と正当化できる理由および状況の組み合わせからされるとのこと。

バーコヴィッツによると攻撃行動の決定要因の一つに「攻撃手掛かり」がある。武器などが近くにあると、それが意識のなかで攻撃行動と直接結びついているため、攻撃行動が促されやすい。実験では、怒っている人の方が当然だが攻撃をする傾向があるが、その上で武器が近くにあるとその傾向がさらに強まることが確認されている。

トレスタッドは、挑発が攻撃を引き起こすことを明らかにした。

若者が挑発と受け取る行動
不合理な行動、不公平な非難、直接的な侮辱、思慮のない行動、からかい、計画の妨害、がみがみとした小言、欲求不満が生じる状況、所有物への損害。


一般に挑発にはエスカレートする傾向がある。

(私見:挑発や攻撃行動は、社会的活動にとって基本的に弊害となるものであるから、最初の挑発の段階で抑制的に対応することが望ましいと思われる。問題に対しては、感情的になることなく、状況を俯瞰しつつ段階的な解決ができる方向を模索すべきだ。)

心理学では攻撃行動を行いやすい人をタイプAという。タイプAの人は、競争的であり、いつも時間に追われるように焦っていることが多く、短気で怒りっぽいといった比較的活動的な性格的特徴であり、攻撃性が高い傾向がある。それらとは逆のおだやかな特徴の人をタイプBという。

エバンスらは、アメリカ人とインド人のバスの運転手を対象に、それぞれタイプAとBの者を抽出しての調査研究から、事故の比率がタイプBよりAの方が数倍高く、タイプAでは運転に攻撃性がみられたことが分かった。それらの傾向に国や文化の違いは関係なかったとのこと。

同じことをされても、それを好意と感じるか敵意と感じるかは人により異なるが、相手の行動を攻撃的に偏って捉える傾向のある人の認知の歪み方を「敵意帰属バイアス」という。

ドッジらは刑務所に収容された青年の敵意帰属バイアスと攻撃の関係を調べた。敵意のない行動に対して、彼らが敵意を見出す傾向と、犯罪件数の多さに相関関係があることが分かった。

(私見:人の性格は個性のひとつであるからそれ自体は尊重するけれど、敵意無きところに敵意を感じるタイプの人は周りからは困る存在だし、過度に攻撃的な場合は問題が生じかねないので、そういう人は認知行動療法や自律訓練法などの瞑想により、バランスをとることを心がけるといいのかもしれない。)


認知行動療法のすすめ
「認知のゆがみ」を知って、序々に修正し、改善していく「認知行動療法」

【認知の歪み】
・AかBか「二分割思考」
・偏った「選択的抽出」
・気になることだけ重視する「拡大視/縮小視」
・理由なき「自己関連付け」
・過度の「自己正当化」
・偏った「感情の理由づけ」
・「極端な一般化」
・根拠なき他者の「心の読みすぎ」
・「レッテル貼り」
・勝手な「恣意的推論」
・「すべき思考」
・「極論」

 ↓

【認知行動療法】
① 自分の捉え方が意識できない自動思考ではないか気付けるようにする
② それを客観視し「認知の歪み」が含まれるか確認
③ 「認知の歪み」が含まれるなら歪みのない建設的な考えに修正
④ 歪みなき認識と建設的な考えを序々に実践
⑤ この手順を問題が改善するまで普段の日常で中長期的に習慣づける






社会心理学における集団心理


社会生活をする過程で多くの人たちと関わっているが、気付かないままに直接的間接的に受けている影響を社会心理学では「社会的影響」という。同調や態度変容、援助行動などがそれにあたいする。

説得は対象も意図もはっきりとしたものだが、同調行動は対象が不特定で意図もみえないことが多い。根拠のある同調行動として交通ルールを守るというものがあり、根拠のない同調行動に真夏にスーツを着るなどがある。他に流行を追うことや新しいサービスが普及するときも同調行動が関係している。

社会には明確か暗黙かに関係なく広く受け入れられているルールがある。例えば交通標識を守るだとか図書館で静かに話すなどである。そういった同調行動のなかでも特定の場所におけるルールを「集団規範(社会規範)」という。

私たちが同調する理由は、相手と意見を一致させることで相手に好かれたい欲求を満たすことや、何が客観的に正しいかが不明瞭な場合などに、周りの意見に合わせることで、自分が正しい意見の側にあると考えて、正しくありたいという欲求を満足させることにある。


3種類の同調
追従:好かれるためか利益のためにするが表面的で一時的なもの。実際は意見を変えていない。
同一視:憧れる相手のようにありたいという欲求から生じる。考えへの同調とは異なる。
内面化:正しくありたいという欲求から信頼できる相手の主張を自分のものとする。考え自体に同調している。




(補足:これはある被害に遭遇して、リベラルな中道左派の僕が右派のような人たちに巻き込まれたこともあって、彼らが来ないようにする目的と、もし来ても心理学などであれば、彼らの思考の歪みが是正される可能性があることから、過去に勉強したことをまとめているツイートをブログにアップしたものです。)




※以下追記(180508?) 少数意見が社会に影響するケースがある。例えば、ガリレオの地動説、ダーウィンの進化論、フロイトの精神分析、初期のキリスト教や仏教の布教、マイノリティ差別の問題、環境保護運動、禁煙活動などが挙げられる。

我々は一般的には多数派に同調する傾向があるが、少数意見が通るには一定の条件がある。それは少数者の意見が一致していること、それから少数者の側が頑固で独断的であると思われないようにすることの2点である。それとは別に、少数者の意見でもそれがそのときの社会的流れに一致するとより効果が大きくなる。

問題は20世紀に少政党だったナチス党が躍進したケースなどの多数派ではない意見が序々に影響するケースのなかに注意と警戒が必要なものがあること。最近でもネット右翼といわれる人たちは実社会では極めて少数にも関わらず、ネット上では少なからぬ影響があって社会が困惑しているということもある。

日本では自民党が一時を除いて長く与党にあるが、狡猾なメディア戦略などもあって恣意的に世論の流れがつくられるため選挙に強いように見える。しかし実際の選挙における得票数(有権者の25%(小選挙区)?16%(比例区))は決して多くはなく、投票率の低さ(5割程度…7割だと野党圧勝に)と野党票の分散に助けられている。

民主主義は多数決という側面があるので基本的には多数派に有利だが、低投票率の選挙では実際の社会の多数派が勝つとは限らないため、また、選挙に勝ったといえども国民すべての代表の意見を政治と政策には反映させるべきであるということからも、与党の独断のような政治は許されない。

(余談)前述は妨害があってもツイートできるように前日に書いておいたものをアップしている。昨日はそれがひどいテク犯被害でできなかったからそれを訴えている。被害は苦しい悪質なもので、外部からの何かがなければあり得ない。僕は何も問題あることはしていない。(閑話休題)

シュタイナーは集団による作業が効果的かを調べた。

集団でする作業を4つに分類
① 加算的課題:各作業の合計が成果になるもの(単純な大量生産など)
② 補整(調整)的課題:各作業の平均を成果とするもの(統計などの調査)
③ 分離的課題:集団内の最高の能力のメンバーの成果が反映されるもの(企画立案など)
④ 連結的課題:集団内の最低の能力のメンバーに合わせることが成果になるもの(集団による登山など)
(この順の①ほど集団作業の方が効果的になる。③の場合は最高の能力のメンバーの能力が成果になるが、①と②は集団で作業をするため最高のメンバーの能力よりも大きな成果が得られる。④の連結的課題のみ個人での作業の方が成果に優れる。…個人的には④の場合も、他のメンバーの協力と援助により最低の能力のメンバーの成果を上げることが可能と思う。)



一般的な社会現象として、加算的課題においては、メンバー各自の作業結果が分かり難く、成果の貢献度が比較し難い場合に「社会的手抜き」が発生する。これは性差や文化に関係なく、様々な条件下で生じるものである。


加算的集団作業で「社会的手抜き」を避ける為には、
①各自の成績を確認できるようにする
②各自の貢献度を評価させる仕組みや評価基準を導入する
③課題を魅力あるものにする
④集団の魅力(集団凝集性)を高める
 ことが有効であると各種実験で確認されている。



集団で話し合って出された結論は公平で偏りが小さいと思われるかもしれないが、実際はストーナーなどの研究により、話し合う前に比べ、よりリスクを冒すか、より安全な選択をするようになることが知られた。話し合いをすると、賛成・反対に関係なく極端で偏った結果になる傾向を「集団極性化」という。

「集団極性化」が生じる理由は、話し合いの過程で自分の意見を補強する別の発想に触れて考えが強化され、さらに複数の人が自分と同じ考えであることを確認することで自分たちの考えに確信をもつためにより偏った意見が増えていき、結果として集団としての決定も見解の偏ったものになるということにある。

「集団極性化」は妥当な決定を行う能力を損なう。故に本来知的で理性的な人たちが集団でものごとに対応した場合に、「集団思考」により常識では考えられらない結果になることがある。ナチスのソ連侵攻や旧日本軍による真珠湾攻撃および南進政策、オウム事件などがそれに価する実例になる。

「集団思考」は問題に対して、現実的で優れた解決策よりも、集団の意見の一致を優先させる傾向がある。「集団思考」では、最善の決定よりも、意見の一致とその維持に関心が移り、現実を無視してしまう可能性があるので、場合によっては悲惨な結果を招きかねないがため、この点には十分な注意が必要だ。

集団のまとまりがいい方が作業が進むのは確かだが、しかし、いくつかの他の条件と結びつくと「集団思考」における異常な思考過程が働き、危険な傾向が現れる場合がある。


・危険な「集団思考」が生まれかねない初期段階の要因
① 集団のまとまりが強い。
② 外部からの情報が入らない。
③ 専制的な指導者がいる。
④ 強力なライバルとなる集団がいる。
⑤ ①?④ の結果として、全員の意見の一致を求めるようになる。

・危険な「集団思考」が生まれる要因
⑥ 過度に楽天的になり、自分たちは無敵だという幻想が生まれる。
⑦ 集団は完全に正しいと信じるようになる。
⑧ 集団の意見に反対する情報は無視する。
⑨ 他の集団は全て愚かであり、自分たちの敵だと思う。
⑩ 集団内での異論は歓迎されない。
⑪ 異論があっても主張しなくなる。
⑫ ⑩⑪ により、集団全員の意見が一致しているという幻想が生まれる。
⑬ これらの結果として決定が大きく歪み社会的に危険なものとなる可能性がある。



(私見)
例えば討論型世論調査というものがあるが、これは討論のグループの数が多ければそれぞれの偏りが生じても全体としてバランスがとれる可能性はあるものの、前述したような集団思考など問題を敷衍したなら公平性の問題とともに何らかの歪みや対立が生じる懸念も考慮する必要があるだろう。

上述の「集団思考」に関する問題は特定のグループによるものでありポピュリズムと同じとは限らないが、孤独から離れられる一体感や集団によることからの無責任性および匿名性による集団的熱狂にも同様の過程があるため、政治においては情報公開とメディアの正常化および立憲主義の徹底により、それらの問題は回避すべきものである。

「集団極性化」や「集団思考」に関する問題の記述の前に、「少数意見が通る条件」として「少数者の意見が一致している」「少数者の側が頑固で独断的であると思われないようにする」ということがあることについて記述しているが、直前の「集団思考」の問題も含めて、権力による戦略的利用を回避するためには権力から独立したより強力で透明なメディア監視機関が必要ではないか。

(以上) (注意:実は前のツイートする前日までものすごい被害を受けており、食後に洗い物をして歯を磨くという行為をするだけで12時間も妨害され続けた。裏にテク犯被害がある。フランクフルト学派の第一世代におけるナチス批判の類いを書かせないようにされ、それらに関する書籍を読むことも妨害され続けた。)

心理学でいう「集団」は単なる人の集まりではなく、その条件は、メンバーが相互に影響を受け合う、関係が一定期間継続する、共通の目的をもつ、集団内の地位や役割が明確である、集団に属している自覚がある、というもの。この条件に当てはまるほど集団らしいと考える。企業などは全てを満たしている。


集団に所属する5つの理由
・心理的欲求を満たすため (人気グループ等)
・目標達成を援助してくれるため (塾やNPO)
・個人では入手できない知識や情報が得られるため (教育機関やシンクタンク)
・身の安全を守るため (被害者団体)
・肯定的な社会的アイデンティティを得るため (一流企業等)




三種類の集団形成
・計画的形成: 企業や公的機関など社会的な目標を達成するための(公式)集団。基本的に組織形態や規則を予め決めて個人を配属する。
・外部的規定での形成: 言語、職業、宗教、居住区など周囲により集団と認識されるもの。
・自発的形成: 趣味など満足感を期待しての集まり。



集団が形成され、その構成員に個性の違い(例えば積極性など)が生じることを「分化」という。それによって集団内のメンバーに何らかの関係ができることを「集団の構造化」、その関係を「集団構造」と呼ぶ。


「集団の構造化」が生じる理由
・リーダー、サブリーダーなどの役割ができることにより高い集団効果が期待できるから。
・能力や意欲の高いメンバーが、集団内でより重要な地位を占めるようになるから。
・コミュニケーションの中心にいる人がリーダーになるなど、集団内での状況が影響するから。



集団の構造化により「役割と分担」が生じ、それぞれがその影響を受けるようになるが、各自が役割分担をすることで効率よく目標が達成できるようになる。役割は公的機関のように規則で決められる場合もあるが、友人との関係における自然な分担というケースもある。

集団に目的がある場合は「役割」は責任や義務を伴い、その範囲で個人的な自由は制限されることになる。また、役割に自己のイメージを結びつけてしまうと、それを自分の一部と考えて、異なる状況におけるコミュニケーションに問題が発生する可能性がある。

集団に共有される基準を「集団規範」といい、集団に所属している範囲で影響を受ける。集団規範はそのメンバーたちにとって重要なものについてのみつくられ、集団にとって重要ではないものに関してはその限りではない。集団規範には全員に適用されるものと、特定のメンバーだけに適用されるものがある。

魅力的な集団がもつ惹きつける力を「集団凝集性」という。集団凝集性には、それぞれが互いに好意をもつことからくる「対人的凝集性」と、所属することでその集団により目標を達成できることから得られる魅力である「課題達成的凝集性」の二種類がある。

集団が共同して作業する課題では、対人的凝集性と課題達成的凝集性の両方が高い状態であることが望ましい。一人でできてメンバー間の協力が必要のない課題では、課題達成的凝集性のみが必要であり、対人的凝集性は相互の配慮などが逆に阻害要因になり得る。

集団のリーダーの言動がリーダーに従う人(社会心理学ではフォロアーと呼ぶ)や集団の活動および目標達成などのために影響することをリーダシップという。(リーダーシップといっても単純ではないが、その発露にはオウム事件のような危険なものも含まれるため、「集団の目標」が何であるかは重要な要素である。)

リーダーシップには、リーダーの特性と行動、およびリーダが普遍的であるか状況対応するタイプか、という4つの類型がある。

   普遍的  状況対応
特性 特性論  状況即応理論
行動 PM理論 状況対応理論(カリスマ的リーダーシップ)



初期研究はリーダーには何か特別なものがあるのではないかと「特性論」を考えた。ストッディルとバスによると効果的なリーダーシップを発揮する人の特性は、高知能、自信、支配性、社交性と対人技能、活動性、社会参加、学業、責任感にあるとのこと。しかしフォロアーにもあり得るため疑義が呈された。

特性論は成果をあげられなかったので、「行動」面に注目する「リーダーシップ・スタイル」が、レヴィンなどにより研究された。これは民主型、専制型、放任型の三つのタイプのリーダーシップを定義して、それぞれの構成員の行動や集団の成果にどのような違いが生じるかを研究したものだ。


<3つのリーダーシップ・スタイル>
   仕事の質 仕事の量 雰囲気 好意度
民主型 ◎    ○    ◎   ◎
専制型 ―    ○   ?(イジメが多い) 
放任型 ―    ―     ―   ○
(ホワイト、リピットによる。1960年)
全てにおいて民主型のリーダーシップが優れる。



カートライトらは集団には、集団目的達成のための「課題達成機能」と、集団の結束を促すための「維持機能」の2つの機能があるとした。
三隅はそれを「リーダーシップ・スタイル」にも当てはめ、それらの機能を促すのがリーダシップであるという「PM理論」を提唱した。

「PM理論」は、課題達成を促すリーダーの行動を、課題達成機能(performance)をPとしてP行動、また、集団の関係を維持して凝集性を高めるリーダーの行動を、維持機能(maintenance)をMで表現してM行動とし、それらの組み合わせでリーダシップが成立していると考えた。


PM理論
(メンバーがリーダーのP行動とM行動を評価する。)
P型:目標達成に重点をおき、人間関係にはあまり配慮しないリーダー
M型:目標達成よりも、集団内の人間関係に気を配るリーダー
pm型:目標達成にも人間関係にも消極的なリーダー
PM型:目標達成を強調しながら人間関係にも気を配るリーダー



PM理論においてはPM型のリーダーシップが理想ではあるが、その条件を常に満たし続ける普遍的なリーダーは存在しない。そのためリーダーの「特性」だけでなく集団の「状況対応」を考慮に入れたリーダーシップ研究がなされた。フィードラーの「状況即応理論」(LPCモデル)が代表的である。

LPC(esteem for Least Preferred Co-wokker)という概念は、状況に応じたリーダーの効果を説明できる。これはリーダーに最も苦手なフォロアー(共同作業者)の評価をさせて、その点数が高いか低いかでリーダーのタイプを分類したものだ。

高LPC:人間関係を重視するリーダー
(リーダーによる集団のコントロールが中程度のときに、最も高い効果を発揮する。)

低LPC:仕事を中心に考えるリーダー
(リーダーが集団を完全にコントロールしている、もしくは全くコントロールしていないときに、最も高い効果を発揮する。)



前述の「状況即応理論」が状況におけるリーダーシップの「特性」に注目したのに対し、状況におけるリーダーの「行動」と「フォロアーの成熟度」に注目したのが「状況対応理論」(SL?Situational Leadership?理論)である。SL理論ではPM理論におけるP行動を指示的行動、M行動を協労的行動と呼ぶ。


SL理論

フォロアー 指示的 協労的  リーダーシップ
の成熟度  行動  行動   ・スタイル

未成熟    高  低     指示的
やや未成熟  高  高     説得的
やや成熟   低  高     参加的
成熟     低  低     委任的

SL理論ではフォロアーの成熟度によりリーダーシップ・スタイルが異なる。 (フォロアーが未熟)  ↑ 指示的:具体的な指示命令を与え監督する    説得的:指示について説明し援助する    参加的:責任をフォロアーと分かち合う  ↓ 委任的:仕事をフォロアーに任せる (フォロアーが成熟)


ときに集団を魅了するような「カリスマ的リーダーシップ」が存在する。一見するとこれは「特性論」に分類されると思われるかもしれないが、実際はリーダーとフォロアーの相互作用によるものであるため「状況対応理論」で扱うとのこと。


カリスマ的リーダーには以下のような傾向がある。
・集団に将来のビジョンを伝える
・そのための明確な計画を示す
・目的を明確化する
・ときには自らがリスクを冒す



※社会心理学では集団のリーダーに対して、共同作業者や部下をフォロアーと呼ぶ。
(ちなみに僕は社会心理学の基本のまとめを書いているだけであり、カリスマなど望まない。)


ここから集団ではなく「群衆」と「群集心理」を扱う。群衆は集団と異なり組織ではなく統制も何もない人の集まりをいう。自分が何者かも知られていないから何をしても構わないという心理状態を群衆心理という。大災害や戦争のときの略奪等がそれにあたる。自己制御された平常時では起こり得ないものだ。


<群衆と集団の違い>
      群衆    集団
期間    一時的   一定期間
役割    未分化   分化している(組織的)
相互作用  弱い    強い



人が群れるのは、人だかりを見てそれが何かと興味をもつように自分の周囲について知るためや、自分の考えが正しいかを確認するため、不安のなかで安心感を得るためなどの理由がある。(実験において強いショックが伴うと説明された方はそうでない方より他の人と一緒に実験まで待機することを選択する傾向が高い。)

群衆による「一体感」は孤独感の解消に役立つが、そこでの「無名性」(匿名性)故の「無責任性」は罪悪感を弱めるので、「群集心理」が発生する場合がある。


群衆には2種類ある。
・モッブ(mob):能動的で非常時には大騒ぎする。
・聴衆:受容的だが、ときに乱集化(モッブ化)することがある。



「防衛的な乱集行動」である「パニック」だが、1938年に米国で起きた「火星からの侵入事件」は、ラジオドラマで「火星人らしき生物が地球に侵入した」という放送を聞いた人たちがそれを信じて知り合いに次々と電話をし、結果として百万人の米市民が巻き込まれて混乱が起きたという事実が存在する。

釘原らによる非常事態の心理実験(パニック実験 1988年)がある。

実験の恐怖条件を避けるためには、一つしかない出口から短時間で脱出しなければならないのだが、脱出方法は手元の脱出ボタンを百回打てばいいだけ。ただし、他の人が同時に打つとカウントされないというもの。しかし、譲歩ボタンを押せば相手が優先されるので、論理的には全員がなんとか脱出できる。

実際の実験では譲歩ボタンを押す人(譲歩反応)が時間とともに減って、脱出ボタンを押す人(攻撃反応)が増えることで、全員が助かる状況設定であるにも関わらず、多くの場合で脱出に失敗している。

パニックは根拠のない「デマ」や「流言」から発生する場合がある。1973年の「豊川信金事件」は女子高生の就職先が豊川信金に決まったときに友人が根拠なく「信金なんて危ないよ」とからかったことに端を発した。倒産の噂で預金者が窓口に殺到して約8億円が下ろされる「デマ・パニック」となった。


「流言」の法則

広まる度合い = 事態の重要性 × 情報の曖昧さ

特徴
・平準化:短く要約され平易に。
・強調:部分が抽出され誇張。
・同化:広がる過程で憶測や感情の影響により歪められる。

(G・オールポート、L・ポールマン 1947年)




デマ
政治的な目的で意図的に流す扇動的かつ虚偽の情報。デマゴギー。
事実に反する噂。

流言
根も葉もないうわさを言いふらすこと。また、そのうわさ。デマ。流説。るげん。

噂
そこにいない人を話題にしてあれこれ話すこと。また、その話。
世間で言いふらされている明確でない話。風評。

(大辞泉)



困っている人に遭遇したときに、自分以外に人がいる場合は、一人のときよりも援助行動をする確率が下がる。他者の存在によって責任が拡散して、傍観者的な態度が形成されるがために、援助しないという選択をする人が増えるのだろう。


ラタネ、ロディンによる援助行動に関する実験:
隣室に移動した人から悲鳴が聞こえた場合、一人のときが最も援助行動に繋がり、友人と一緒の場合はそれよりも援助行動が低く、見知らぬ人と一緒の場合は援助行動の確率が5割を下回り、サクラ(悲鳴を無視)と一緒の場合は援助行動をする人が少なかった。



(私見)
この実験からも分かるように、人は傍観者や群衆になると問題を放置したり問題を起こす傾向が高まるため、社会において理念と理想を重視したとしても、それがルソーのいう一般意思が法律や憲法によるものであるという解釈をするのであれば問題はないが、もしそれが国家の人格化のようなものであったり、全体主義色のある社会主義を含む独裁の類いであるような場合は、空想上はそれに理念があったとしても、現実的にはポピュリズムなどの衆愚政治になるだけの可能性があることが、人の群衆心理や傍観者の無責任性からもわかるのではないか。

過去にも書いているけれど、多様な個々人の人格の形成において、認知の歪みが少なくなるように認知行動療法を標準化して導入することは、この手法が個人の価値観に関係のないものであるため、個人の価値観への介入にはならず、故に多様な価値観の現代において個人の人格の確立が好ましいものになり、それぞれが丁寧に対話し議論を重ねて民主主義を形成すれば、社会が自由と平等において調和した理想を目指すことを阻害しないどころか、過去の理想主義を目指した改革の失敗の数々を乗り越える可能性があるかもしれない。

余談:ぼちぼち社会心理学の基本の復習をしている。現在の政治に関しての言及をいまは避けているのは特殊な事情があるからで、僕の意見や価値観は何も変わっていません。(談余:不可解でデタラメな何かがこの社会の裏にあるので、もし関係する人がいるなら注意して下さい。)

(閑話休題)


流行現象を社会心理学で捉える
「流行とはある社会集団の中で、一定の人たちが、一定の期間、ある意図のもとで、同じような集団行動をとるように心理的に誘われることである」(南)とされる。

流行の特徴は、年齢や地域など及ぶ範囲が一定であり、継続する期間が限定されるので一時性があってかつ周期性が存在し、作り手による意図的が受け手である集団行動をつくりだす傾向があることだ。流行は直接的な統制でなく、社会心理学的な力による間接的な統制によって、私たちを同調行動に導く。

群集心理学の祖ル・ボンは、流行の源泉を人間生来の模倣性に見出した上、この模倣を被暗示性の昂進した群衆心理における感染の結果であると考えた(感染説)。流行は自発的意志に基づいて模倣されるとはいえ人為的に作られる場合もあるし、人々の全く予想していなかったものが流行し出す場合もある。


「イノベーションの普及過程」(流行のイノベータ理論=ロジャーズ)
<異端期>新しいもの好きなオピニオンリーダー(イノベーター=革新派、2.5%)→<流行期>初期採用者(13.5%)→前記追随者(平均的、34%)→(ピーク)→後期追随者(平均的、34%)→<流行遅れ>遅滞者(16%)



私たちには「同調性への要求」(みんなと同じでありたい。「模倣」)と「独自性への要求」(人とはどこか違っていたい。「差異化」)という気持ちが共存する(「両価説」、ジンメルによる)。この2つの心理の微妙な拮抗により流行が成立する。


<独自性への要求>→イノベート→宣伝(権威づけ等)→イノベータが採用→周囲の人が取り入れだす→<同調性への要求>→流行の普及

→<独自性への要求>→…



ジンメルは「流行は階級的である」と考えた。流行は人々にアイデンティティ(同一性)を与えるが、他方では下層から模倣される上層の作り出す新たな流行によって差異性が保たれる。(ジンメルによると流行には寿命があるとのこと。一般化され定着するものもあるがその時点で流行ではなくなっている。)


流行のタイプ
・一般化型:流行が永年的に定着する。ことに定着した生活様式は文化といわれ、相互の交流によって伝達・共有されると共に発展する。
・循環型:周期性があり、一定期間をおいて繰り返し、流行と衰退を繰り返す
・衰滅型:流行が定着せず陳腐化してしまう。「一過性」のブーム。 



商業主義が支配している市場では、あるメディアが取り上げた話題を他のメディアも扱うことで大流行している印象ができ、口コミ(パーソナル・コミュニケーション)などがそれを促すが、そういった現象を利用して流行やトレンドはつくられる。

※昨今ではネットでのフェイクニュースが問題視されているが、一般の信頼性が高い情報よりもフェイクニュースの方が面白おかしいこともあって、早く拡散される傾向があるといわれている。広告収入を目的にフェイクニュースが産業化されているような時代であるが故にメディアリテラシーが問われている。

流行現象の一つに人気がある。人気を支える3つの要因として、身近に感じられるような「親近感」、コメディアンや三枚目などの受け手が「優越感」を感じられること、特別な影響がある大スターへの「憧れ、尊敬」がある。また、接触頻度が高いことも親近感をおぼえて人気に繋がる。

流行のブランドなどには顕著な評価や権威付けの影響による(この場合は肯定的な方向で)認知が歪められる「威光効果」(ハロー効果、後光効果)がある。そういった認知バイアスのある人を被影響性が高い人というが、自主性に欠けたり、権威に弱い傾向があるとのこと。

広告の心理効果
宣伝(プロパガンダ)という言葉は始めはキリスト教の宗教宣伝で用いられたが、次第に政治宣伝、商業宣伝として使われるようになった。しかし、ヒトラーが巧みなプロパガンダの技術により世論を巧妙に操作したことから、(宣伝ではなく)広告やCM、PRの用語が用いられるようになる。

プロパガンダは真実ではない情報を一方的に押し付けて世論操作する印象が強いが、政治性のない商業広告でも常に真実であるとは限らない。現在は誇大広告は規制されているが、広告にも宣伝の要素が含まれており、商品そのものよりイメージを感情に刷り込む非合理的な手法が使われ購買意欲が刺激される。

何度も繰り返し登場する反復広告は、私達が何度も繰り返し接するものを覚え親近感を持つ心理である「単純接触仮説」を利用している。例え単純でつまらなくても繰り返されれば覚えてしまうから、それでも広告の目的を達成するが、飽きない工夫や好感をもてるような手法により相乗効果を狙うものが多い。

ジールスクの研究によると同じ広告の繰り返しでも、週一回、十三週連続で集中提示した広告の記憶率は6割を超えるが1年後には忘れられている。しかし、四週間に一度を一年に渡って13回、分散提示した場合は、忘れかけた頃に接触するために結果として序々に記憶率が上がり一年後に5割を維持した。

数多くの広告があるが、そのなかでそれぞれが自社の広告を見てもらおうと努力を重ねている。様々な手法があるが、なかでも割と簡単に自社の広告を目立たせる方法として有名人を使うというものがある。有名人を使うメリットは、前述した「威光効果」があるからだ。

それにより広告に目が止まり、さらにはその有名人の好印象の影響で商品にもいい印象がつくという二重の効果が期待できる。しかし、デメリットとしては、多数の広告に登場する有名人では差別化がはかりにくいこと、及び、有名人のスキャンダルで商品のイメージに傷がつく可能性があることが挙げられる。

広告は時代によって変化している。1970年代以降はモノそのものを表に出さない「広告のモノばなれ現象」が起きた。商品の性能差が小さくなり理性的なアピールで差別化することがそれほど意味をなさなくなったことが要因だが、品質以外で消費者の購買意欲をそそるには感性に訴えることが重視される。

キャッチコピーも商品以外の内容での印象に残る感覚的なものや、イメージソングを用いて感受性に訴えたりライフスタイルや環境意識などのデザインを重視したもの、キャラクターを用いたストーリ性のあるシリーズ化したのものなど、消費者の注目を集めたりイメージアップできるように工夫されている。

人間は「考える葦」であるから、感性のみに訴える広告だけが有効とは限らない。理性に訴える場合、必ずしも利点だけを取り上げる方がいいわけではなく、消費者の内面にある賛否に対しては、一方的なアプローチが反感に繋がる可能性まで考慮した、ひと工夫ある広告なども用いられる。

説得内容に賛成の人や意識の低い人にはメリットのみを提示する「一面的なコミュニケーション」が有効であるのに対して、反対の人や意識の高い人にはメリットとデメリットのを提示する「両面的なコミュニケーション」の方が効果的であるから、対象により広告の手法を選ぶ工夫もされている。

広告への反応が、認知的反応→情緒的反応→行動的反応の順で段階的に生じると仮定した「効果階層モデル」がある。代表的なものとしてAIDMA(アイドマ)、DAGMAR(ダグマー)、ラビッジ・スタイナー・モデルなどが挙げられる。

後の研究により、情緒的反応→認知的反応→行動的、の順が「関与」の高低の差によって逆に、行動的反応→情緒的反応→認知的反応、の順に表れることが判明し、FCBプランニングや精緻化見込みモデルなどが提唱された。


AIDMA(アイドマ)とはアメリカのローランド・ホールが提唱した消費行動の仮説で、消費者の心理的プロセスが以下の順で展開するとされる。
<認知段階>Attention(注意)→<感情情段>Interest(関心)→Desire(欲求)→Memory(記憶)→<行動段階>Action(行動)



認知段階で消費者に注意を促し商品を知ってもらい、感情段階で関心の有無と購入意欲の促進および商品を記憶してもらって、行動段階で購買行動をしてもらうというプロセス毎にマーケティング戦略を考える。(類似したモデルにAIDA(アイダ)やAIDCA(アイドカ)、AIDAS(アイダス)がある。)

DAGMAR(ダグマー)理論とは、ラッセル・H・コーリーの1961年のレポート“Defining Adverting Goals for Measured Advertising Results(広告効果測定のための広告目標を定義すること)”で提言されたもの。


DAGMAR理論では、Unawareness(未知)→Awareness(認知)→Comprehension(理解)→Conviction(確信)→Action(行動)の各段階での指標(認知率→理解度→意向度→実売数)により、明確な広告目標の設定や広告効果の測定が可能になるとされる。




ラビッジ・スタイナー・モデルは、購買に至るまでの消費者の心理変容過程を、awareness(認知)→knowledge(知識)→liking(好意)→perference(選好)→conviction(確信)→purchase(購買)に分けて、各段階の広告の機能と役割を検討する。




FCBプランニング・モデルは、製品を関与度(高関与・低関与)と製品タイプ(思考型・感情型)で分類。
高関与?思考型:耐久消費財など情報提供型製品
高関与?感情型:化粧品や宝飾品など情緒型製品
低関与?思考型:日用雑貨など習慣形成型製品
低関与?感情型:嗜好品など個人満足提供型製品



精緻化見込みモデルとはペティらが提唱した社会心理学理論。広告に対する消費者の態度を説明する。関与や知識が高い消費者は広告メッセージに含まれる商品特性などの中枢的ルートにより態度変化が生じ、関与や知識が低い消費者はタレントや音楽などの周辺的ルートによって態度変化が生じる。

(私見)社会的な公平性という観点からは、広告など産業社会は格差を拡大させる市場経済の権化のようなものではあるが、広告があるがゆえに様々な映像メディアなどの娯楽や便利なアプリが無料で利用できる側面がある。ただ、個人情報が知らないままに利用されかねない懸念は憂慮すべきだろう。

現代人は情報化社会に暮らしている。新聞、雑誌、ラジオ、テレビ、インターネットを介して、マスメディア経由で自分の周辺以外の世界を見ているといえる。自身の接触できる行動範囲(現実環境)には限界があるが、メディアを通じての「擬似環境」の範囲は広い。

かつての一方通行だった時代とは異なり、メディアも双方向の時代を迎えつつある。そのようなメディア経由のあたかも現実と感じられるような(ネット情報だけでなくテレビドラマやゲームを含む)擬似環境が無自覚に影響して、それぞれの思考や判断および行動の選択に何らかのかたちで関与している。

日本の国民文化といわれる漫画だが、過去に大学生に調査した漫画から学んだものは、人生の価値や目的の意味付け、歴史などの学習、先人の体験を学ぶ、年長者を対象とした作品から独自性や優越感を味わう、異性の視点を学ぶ、などの影響があることが示された。

漫画の特徴はキャラクター文化にある。優れた漫画のキャラクターを理想として自分と一体化させることで、現実と自己のギャップを埋めて仮想的現実感(ヴァーチャルリアリティ)を体感できるが、それにより自我意識の希薄化に関する懸念があるとのこと。

イーロンは暴力番組の影響を8?9歳から十年追跡調査した。8?9歳時の暴力番組の好みと十年後の攻撃性には強い相関関係があるが、8?9歳時の攻撃性は十年後の攻撃性に相関があっても暴力番組への興味は相関がないことから、発達期に暴力番組を見ることが後の攻撃性に影響するという結果だった。

前述の攻撃行動促進説に対して、攻撃行動抑制説では、「カタルシス(浄化)」によって誰にでもある攻撃性が暴力番組をみることで、気付かないうちにはけ口となって、攻撃欲求が解消(浄化)されるという見方で反論している。

インターネットが普及した現代においては、SNSの登場もあり、コミュニケーションのあり方がかつてとは異なる状況ができている。コミュニケーションの距離感が時間を超えて広がり、仕事においてもメールの処理に追われるなど、利便性とその弊害ともいえる社会状況にある。

インターネット・コミュニケーションの利点として、自分の好きな時間に利用できることやリアルタイムの応答が必ずしも必要ないこと、不特定多数とのコミュニケーションが可能なこと、障碍のある人も健常者と同じようにコミュニケーションできること、地位や立場への偏見が解消されることが挙げられる。

コミュニケーションには適した距離=パーソナルスペースがある。E.T.ホールが提唱したプロクシミクス(近接学)では4つに分けられるが、逆にいえば侵入されると不快な思いをする距離でもある。

密接距離45cm以内
個体距離45~120cm
社会距離120~360cm
公共距離360cm以上



コミュニケーションを共有する対話空間は対面時だけでなく電話の相手との間にも生じる。物理的に自分が存在している空間フレームと、電話による対話空間フレームという、2つのフレームが同時にできる「フレームの二重化」(ダブル・リアリティ)による違和感からメール等による連絡が一般化している。

ネットでのコミュニケーションの問題としては、コミュニケーションにおける印象は非言語情報が9割以上を占めるというメラビアンの法則が知られているが、ネットは言語情報中心のために微妙なニュアンスが伝えにくいという欠点があり、そのため顔文字や絵文字などの工夫がなされている。


※メラビアンの法則(7-38-55のルール、3Vの法則)
メラビアンによる実験で話し手が聞き手に与える印象は、言語情報(Verbal)が7%、聴覚情報(Vocal)が38%、視覚情報(Visual)が55%と、非言語コミュニケーションが9割以上を占め、言語は1割に満たないことが分かった。



ネット・コミュニケーションは対面コミュニケーションに比べて偏見が解消される傾向がある。年齢や性別、人種、社会的地位、障害の有無などが見えないためだが、結果として発言数などの偏りが小さくなる利点がある。公平性という観点からは望ましいことだろう。

(私見)インターネットの登場で言論の自由が拡大したという民主社会にとっては大きな波が到来した。アラブの春などでもSNSが活用されたという経緯もある。しかし、権力によるネット監視が表面化するなど、現代の現実化したネット空間では当初の自由で楽観的なネットへの観測が後退している。

(私見)同時にネット依存症になる人の増加や、配慮に欠ける言論の問題、ネット詐欺の被害、ハッキングやコンピューターウイルスの問題、情報漏洩の問題、ビッグデータでの扱いを含んだ個人情報の問題、政府によるネット監視の問題など、新たな社会問題が噴出している。

社会的速度という言葉は心理学では一定の目的を達成するのに要する時間という意味だが、田舎に比べて都会の人の歩くスピードがかなり速いことは象徴的である。地方への都市化の拡大と高度情報化の進展により社会的速度の差は縮小する可能性があるが、のんびりした社会は過去のものとなるのだろうか。

(私見)ソーラー発電など自然エネルギーの実現により中長期的には環境問題が序々に克服される見通しがたつ。また、AI(人工知能)やロボットが一般的となるだろう近未来において、政治と社会が何を目標にするか次第では、ゆとりある理想的な社会を目指すことも技術的には可能なはずだ。

(私見)今後、どのように社会が変化したとしても、人間の心理における基本的な構造は何も変わらないはずだから、社会心理学の知見は発展するにしても、今後も通用するものだろう。

(社会心理学の学習はここまでにします。フロムやマルクーゼなどの社会心理学も無難なところだけまとめようと考えたけれど、僕は穏健な人間なのに誤解されると困るから、それは止めておきます。ある種の妨害や被害がひどいことも理由ですが、僕の考えが一般的に問題があるということはあり得ないものです。)

(以上ここまで追記:?180618)







啓蒙の是非と民主主義のための開かれた社会における透明な議論の重要性

啓蒙(蒙(くら)きを啓(あき)らむ)とは、人々に正しい知識を与え合理的な考え方をするように教え導くことだが、近代以降の市民社会において、各人が自分で判断する能力を身に付けることを促す啓蒙思想が広まり、理性によってものごとを合理的に捉えようとする傾向が強まった。

しかし、その後にナチズムという民主主義がつくった化物を近代社会が経験したことから、ユダヤ系の知識人が多いドイツのフランクフルト学派はその端緒となった「啓蒙の弁証法」を著し、啓蒙思想における問題を提起する。

啓蒙は神話や暴力を克服するためであるのに、結果としてナチスのような思考が明晰なままの妄想である民族主義的パラノイアともいえる新たな神話や暴力を生み出したのは、啓蒙が道具化した理性となり、個々人の質を単なる量へと還元し、文化的な画一化による管理された世界を招いたことが問題の本質であったとした。

僕には本来の啓蒙という語義における基本概念とその本質的なあり方にまで問題があるとは思えないのだけれど、それは近代の理性中心の合理主義によって人間は完全ではないのに問題のある者が自らを完全であるかのように妄想的に捉えた結果としてナチスのような独裁が生まれたという事実が問題であり、そうであるなら問題の本質は啓蒙ではなくて独裁と強権それ自体にあって、故に問題を独裁と強権だけに限定することで、啓蒙が問題であるという捉え方を回避して、理想を目指すことを容認した方がいいのではないかと感じたからだ。

啓蒙という名の下に自然を征服し合理的な世界を建築しようとすることに無理があることは同意しつつ、また、人間の理性の限界も意識しつつも、一般市民が民主主義および市民社会における自由と人権や社会権を尊重して理想を目指す行為を尊重するという、現在では常識となっている観点を重視する意味における啓蒙は、現代においても重要な価値観ではないのだろうか?

しかし、ポストモダンでは理性や真理などが実際に存在するとは限らないとされる。

ポストモダン以前の構造主義は言語構造が無意識のレベルで主体を規定しているというものだが、それ故に我々は構造に無意識的に支配されていることになり、実存主義が自由な主体意識を重視していることと構造主義は対照的だ。

構造主義はマルクス主義が衰退していったときに、経済が土台となっているというマルクスの下部構造部分を無意識における言語構造に替えたかのように見えるが、経済構造を改革すれば上部構造を変えられるという価値観の放棄でもある。

実存主義はサルトルなどによりマルクス主義の政治参加(アンガージュマン)というかたちで革命への闘争性を一部踏襲しているように思う。

その後に現れたポストモダンに関しては、大きな物語の終焉により真理のようなものが存在しないとしており、そのため相対主義の立場である。デリダは革命とは異なり序々に社会の古い構造を再構築することを重視する脱構築を主張している。

まるで全てがマルクスをどう扱うかの違いというところに収束しているかのように感じるが、マルクスという人が思想の世界においては巨人であったということだろうけれど、必ずしもマルクスとは限らず、単に平等と権力のあり方、および自由に関する民主主義がどのように存在すればいいかという普遍的な課題がそこにあるからだろう。

個人的にはこういった左側の思想を書いていても、革命という考え方には、その先にある種の暴力行為が伴ったり、その後の反動形成などの懸念があるため、民主主義(社民主義)という穏健な手法による社会問題の改善を希望している。

フランクフルト学派は、全体主義における独裁を問題視しつつマルクス思想をソ連などとは異なる西欧の側の民主主義を中心とした価値観で踏襲し、平等や民主主義の理想をどのように追及するかを模索している。

フランクフルト学派による「啓蒙の弁証法」においても道具的理性という概念により理性の批判をしているが、しかし、理性それ自体を疑ってはいない。同じくフランクフルト学派のハーバマスは、ポストモダンの近代理性批判そのものが彼らの批判する理性によるものであることを問題視した。

社会の複雑性と民主主義のあり方からすれば、理性によって一定の方向に社会を誘導する啓蒙という価値観には、理性と合理主義の限界という点から問題があっても、カントの時代ですら合理論と経験論を道徳を目的とする定言命法により乗り越えており、また、フランクフルト学派による近代への道具的理性という批判も、同じくフランクフルト学派のハーバマスのコミュニケーション的理性という概念で補って克服できることから、それにより理想主義を問題視すること自体が意味をなさないのではないかと考える。

ハーバマスはウェーバーの合理性概念を再解釈して、近代理性が追及した合理性はそれぞれの文化領域の自立化をもたらし、それにより統一性が失われた結果として、各文化領域のズレが生じて、誤解等による非合理的な闘争を招いたことから、相互理解に基づくコミュニケーションを重視した(コミュニケーション的行為)。

相互のズレを補いつつ理想をコミュニケーション的行為で目指すのは、ポスト構造主義者のデリダの脱構築のあり方と大きく違わないのかもしれない。というのは各文化領域のズレという観点においては、デリダが、同じ言葉(音声言語=パロール)が繰り返し反復される過程(原エクリチュール)で生じる差異とその時間経過による差延という概念を扱い、また、脱構築(デコンストラクション)によりものごとのズレから真実を浮き上がらせて再構築につなげる価値観を提唱しているからだ。

ただ、ハーバマスによると、デリダの脱構築は解釈の残滓を積み上げることで、逆に露わにしたい基底部が埋まってしまうものであるとの批判がなされている。デリダは、透明性、民主主義的討議、公共空間におけるコミュニケーション、コミュニケーション的行為などは、こうしたものに好都合な言語モデルの押し付けであるとハーバマスを念頭において反論している。しかし、両者は2003年のイラク戦争における空爆への批判を共同声明というかたちで発表している。ハーバマスは論敵から学ぶ姿勢がある識者なので、そのあたりが関係しているのだろう。

近代合理性がもつ権力による戦略的な主体が中心となる道具的な理性への批判と、その問題を回避しての啓蒙という近代の「未完のプロジェクト」のために、それらを乗り越えて市民社会のなかで理想を目指すためには相互理解が重要になる。

ハーバマスは、市民の生活を犠牲にした政治や経済のための「システムによる植民地化」を回避し、権力による戦略的なシステムが追及する指示・命令的な合理性とは異なる、市民の相互理解に基づくコミュニケーション的行為によって社会を形成すべきことを主張している。

貨幣経済により社会が形成されている現状に対して、ハーバマスの提言はコミュニケーション的行為による社会的合意で社会が形成される方が望ましいというものだ。平等な発言機会と自由が保障された理想的な発話環境の想定が理性的な合意の条件になり、そこで弱者を救済する道徳的な行為の普遍性を模索し、十分な納得を伴うかたちで合意を形成するという、ある種の理想論でもある。

多くの人が合意するには、様々な価値観を包括した者である必要も生じるが、人は他者からの承認を求める傾向があるため、弱者救済の動機が小さいひとも、人の為に役にたつことが他者から承認されることに繋がることにより、合意に至ることもあるだろう。丁寧な議論を理性的で理想的な環境で行えば合意ができるというのは決して崇高な理想論というわけではなく、現実論として理解されるのではないか。

一定の理想に向けて議論するという行為は必要なものだろう。理想的な環境での議論において権力の誘導はあってはならないものであるが、それ故に民主主義における議論に関しては完全な透明性が必要であるということがいえる。

以下は私見ではあるけれど、リベラルな民主主義を前提とすると、多様な人々による議論であるだけにその場を支配的に影響する論者が現れる可能性があるが、透明化された議論においては特定の影響がある種の誘導となった場合でも、それが理念の方向にあるのか、それとも一部の強欲な経済界や政治の影響による誘導なのか、を批判的に判別することができるはずで、だからこそ民主主義における議論の透明性は最重要の課題ということになる。

決して啓蒙が問題なのではなく、それを利用するのが、公平で民主的な者であるか、差別的で独裁的かつ強権的な者であるか、ということに注目して、理想がポピュリズムという仮面を被った独裁権力に汚されないように、議論が透明で開かれた民主主義によるものであるか、その議論が問題あるポピュリズムになってはいないかを問い続けることが、民主主義における課題ということになる。

難しいのは、市民によるあるべき民主主義と経済社会における機能性および社会福祉が持続的に維持される状態にするための議論には、各文化領域におけるコミュニケーションのズレを、相互理解を伴うコミュニケーション的行為により調整する必要があり、その際に理念と現実の機能性を同時に実現するためには、そこを補完するための信頼できる客観的で専門性のある高度な人材か、それに代わる何らかのシステムが補完的に必要になるだろうということだ。

というのは、全ての仕組みや概念を把握できる人は存在しないし、全ての領域のズレを解消することも容易ではないからだが、同時にそれがコミュニケーション的行為を最大限尊重できる仕組みである必要がある。

もし、何らかの専門的な補完の仕組みなしに市民社会によるコミュニケーション的行為のみによりそれを成そうとするなら、あらゆる文化的領域における類似した内容にも関わらず異なる表記になっている言葉の中心的な語義と表記を統一する必要があるだろう。そうでなければ専門分野が異なる場合の言葉の相違と多様性を把握できなくなる可能性があるからだ。その上で、それぞれの専門分野における違いを補完する修飾語をつければ分野ごとの語彙の違いを尊重できるのではないか。

そういった努力が成されれば、コミュニケーション的行為による相互了解の社会の形成がより現実的に可能になるが、言葉の語義の統一の過程における経緯も、コミュニケーション的行為を重視した透明な議論のもとで成される必要がある。しかし、それは現実の自由な社会における言葉の自由な創造を阻害することにもなりかねないし、そこまで徹底する必要はないにしても、新たに創造される言葉が定着して、それを統一的な語義にするための努力には時間差が生じることになるだろう。

また、各地域の言語におけるそれぞれの全く異なる文化からなる語の概念の違いを克服することも困難であり、それらの問題によって、理想にある種の制限が伴ってしまうのではそれは理想とは異なるため、語義の統一がない状況で文化のズレを補完するコミュニケーション的行為というあり方においては、一定の距離的空間的な物理的制約が伴うことは現実的には受け入れざるを得ないものかもしれない。

要するに小規模な国家もしくは自治体や州などの距離感であれば、コミュニケーション的行為は可能であり、それを超える場合は、それぞれの自治体や州もしくは小規模な国家から代表者を出して、各地域内でされたようなコミュニケーション的行為と同様の過程による、より大きな合意を透明な議論を経て得るということになるだろう。

人類の壮大な時間感覚という超長期の観点では、時間をかけることで空間的なズレを補完することも緩やかには可能かもしれず、遥かなる未来においては、各文化領域におけるズレをコミュニケーション的行為によって補い続けることが未来の民主主義の社会においては必然ということになるかもしれない。いつの世であっても、自由も民主主義も人権も、そこに暮らす人々の絶えまない努力によって担保されるものであることは、普遍的価値観といえる。






補足:
過去に僕は人間には元々から共感が遺伝的な要素として存在するはずだと書いている。この共感は抽象的な概念で用いているが、それを批判する者がいるのならそれはサイコパスのような存在が実際にいることにより共感の本質的存在という要素を否定してくるのかもしれない。しかし、例外を使って、ある種の普遍的な価値観を否定する行為はやや筋が悪い種いの批判ではないかと思う。サイコパスはある種の機能的な故障であり、人が常に完全な生き物ではないことによるわけで、一般に故障に対しては修理が必要であるように彼らに関しても教育の過程での何らかの手法や再教育により、社会のなかで問題を起こすこと無く生活できるように、社会が穏健に対応する必要がある。

それに関しては、過去にも認知行動療法の導入を提案しているが、この手法はコミュニケーション的行為を成功させるための人的基礎を形作るうえでも、人が認知の歪みを克服するわけだから効果的なものであるだろう。















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