岐阜県神社庁の下呂市小坂町大島にある諏訪神社のページから引用します。
諏訪神社 (すわじんじゃ)
通称
主祭神
建御名方命(たけみなかたのみこと)
八坂刀売命(やさかとめのみこと)
摂末社祭神
建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)
天照皇大御神(あまてらすすめおおみかみ)
大山祇神(おおやまずみのかみ)
住所
〒509-3106 岐阜県下呂市小坂町大島2116番地
由緒由来
創立年代は不祥。古伝によると、戦国時代の永正年間桜洞城主三木直頼の家臣荒井四郎右衛門が、信州の諏訪大神を勧請し、大島村郷石原に祠を建て、守護神としたのが創始である。戸田采女正による元禄検地の際、境内除地3反3畝10歩を付せられた。その後荒井家は衰亡し、正徳元年蔵田五右衛門が、現在地に移し祀ったと伝えられている。同年蔵田五右衛門再興の棟札が、現存する最古のもので、同棟札にある神主市蔵とは、代々鍵取りを奉仕してきた中島家の祖である。享保9年、飛騨国代官長谷川庄五郎忠国が参拝した折、刀一振を献上している。天保4年本殿を再建し、明治41年12月26日、神社会計規定適用指定となる。明治42年7月、字森ケ平の無格社津島神社・字幅氏下の無格社神明神社(藤之宮)を合併合祀した。同時に字小瀬ケ平の星之宮神明神社、及び山之神社を合併した。なお、この星之宮の本殿は、現在御旅所の薬師堂になっている。また、星之宮・山之神社の2社は、官制神社の『明細帳』には未記録となっている。昭和2年に幣殿を新築したが、これは現存する社殿である。同3年3月24日、神饌幣帛料の供進神社の指定を受けた。同9年5月郷社に昇格。同21年7月単立神社として宗教法人を設立し、同55年2月29日、神社本庁に所属することを承認された。神社の境内には、町指定の天然記念物の大杉がある。
祭礼情報
4月第1日曜日
ここまで引用です。





上の記述に戦国時代の永正年間に信州の諏訪大神を勧請(かんじょう=分霊すること)して大島村郷石原に祠を建て守護神としたのが創始とある。正徳元年に現在地(同じ大島地区内だが1キロ以上北)に移し祀られている。

下呂市小坂町大島の諏訪神社が三百年前に現在地に移転する前までは、同じ大島の郷石原の集落にあったということ。

そこは諏訪神社が五百年前に最初に信州の諏訪大社から分祀された場所で、2000年代に入ってから県道88号線の道路工事で「左の写真」の所に「祠」が移転するまでは、僕の家の土地(下の写真)にそのまま存在していた。

道路工事に伴って分家の家の土地に神社の祠(←このリンクは祠のあるところのグーグルストリートビュー。左の写真は僕が以前撮影したもの)が移り、祠があった土地は古い道路と新しい道路に挟まれた不自然な三日月状の竹やぶ(←グーグルストリートビュー、ページ下にそこの写真と説明)となって部分的に残っている。(160329)







余録(151215)

祠 上に諏訪神社から分祀された祠のことを書いたけれど、祠の場所が道路工事で移動した跡地の写真を下に入れた。

祠はこの土地では昔から、ただ「神様」と言われていて、99歳の祖母が幼い頃からあるもの。

御神体は2キロくらい北の小坂の諏訪神社に300年前に移ったが、ここの人がその後も、もともとあった場所として、空のまま祠を守ってきた可能性はある。

下側の集落に降りていく所だけれど、交通量もないのに2車線の山の中にしては広い不自然な道で、民家も少ないのに歩道がついていて、その向こうにもう一本道がある。

そこが昔からあった県道88号線。拡張すればいいだけなのに、なぜこんな工事がをしたのだろうか。道路標識があるが、あの向こうあたりに、もともとの祠があったと記憶している。

いまはこの山沿いの道がこの集落の主要道路だが、この地域の幹線道路は川向いの国道41号線。江戸時代からの旧街道はこちら側で、もっと下の川沿いにあった。

この地域で農地改良のための圃場整備事業が十年ほど前にされるまでは、昔のまま残っていたが、いまも民家のあるところは舗装された共有道路として使われていて、途中からカーブしていまの県道に向かうが、昔はそのまままっすぐ続いて、その先で現在の線路のあるところにつながっていたはず。

その旧街道が山に向かって枝分かれする道がある所の左右の田が圃場整備がされる前までは、うちの土地で、その上は別のうちと同姓の家の土地だった。

更にその上にうちの畑があって、その上に、以前の祠の場所がある。そこもうちの土地だったし、いまも残ったところはそうみたいで、関係がありそうなのは事実。

地形的にも、集落にある道から途中で別れた山側に向かって伸びる道の先に神社という構図は、日本各地で見られる特徴で、おそらく3百年前までの祠の位置が近年に道路工事で移るまでは同じだったと思われる。

もともとこの土地に長野の諏訪から分祀した家は江戸時代になってから、徳川方ではなかったのだろうか、没落したと神社庁のHPに記載があるが、3百年前に地域のの有力者により、町の中心部に近い方に神社が移ったあとも、その祠のところを、ここの地元の人たちが守ってきたんだとは思う。

一応、そういうことを書いておくのは、圃場整備による土地区画の再開発と道路の拡張工事に伴い、昔からの土地の状態が完全に失われたので、誰かが記録を残さなければ消失してしまう可能性のある情報だから。


祠の跡.JPG


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